朱莉は鳴海グループ総合商社にやって来た。手には大きな花束を抱えている。ここに来るのは朱莉が面接試験を受けに来て以来。正に1年ぶりだった。目の前にそびえたつ巨大な高層ビルを見上げながら朱莉はポツリと呟いた。「相変わらず、凄い会社……。でも世界中にある会社だもの。大きくて当り前ね」(こんなに大きな会社じゃなくても、いつか私も何処かの会社で正社員として働いてお母さんと暮せたらいいな……)朱莉は意を決すると、ビルの中へ入り……すぐに行き詰ってしまった。(どうしよう、勢いで会社まで来てしまったけど考えてみれば偶然翔先輩が出てくるはずも無いし……会えるはずなんてそもそも無かったのに……)朱莉は今更自分の取っている行動が無謀だと気が付いた。(こんな時、九条さんがいてくれれば……)そこまで考えて朱莉はすぐに考えを打ち消した。(馬鹿ね、私ったら。今何を思ってしまったのだろう)琢磨はもうこの会社にはいない。翔にクビを言い渡されてからは一切音信不通になってしまったのだから。今現在どこで何をしているのかも朱莉には分からないのだ。「これ以上私に関わればもっと迷惑をかけてしまうに決まってる。だから、きっと九条さんは……秘書をやめて正解だったんだ……」朱莉は自分に言い聞かせ、正面に座っている受付嬢の所へ行くと声をかけた。「あの……副社長室にお花をお届けに参りました。秘書の方に渡したいのですが」ドキドキとうるさい程に朱莉の心臓は高鳴っている。まるで今にも口から飛び出るのではないかと思う程であった。そんな朱莉を見て受付嬢は怪訝そうな顔を見せた。「あの……どちらからのお届けなのでしょうか?」「はい。副社長の奥様でいらっしゃる鳴海朱莉様からの依頼でございます。注文を受けたのでお届けに参りました」これは朱莉が必死で考え着いた嘘である。何とか翔の新しい秘書と接触出来ないか、散々考え抜いての策だったのだが……。「副社長の奥様からですか? それでは少々お待ちいただけますでしょうか?」受付嬢は内線電話をかけると、繋がったのだろう。少しの間何か会話をしながら時々、こちらに視線を送ってくる。やがて内線電話を切ると、受付嬢は朱莉に声をかけた。「今、副社長の秘書が参りますので少々お待ちください」「はい。分かりました」朱莉は少し下がったところで翔の新しい秘書がやって来るの
「あ、あの……すみません!」「はい。何でしょうか?」振り向く姫宮。「実は伝言を頼まれたんです」「伝言ですか?」「はい。実は副社長がお忙しそうだと思い、なかなか自分からメッセージを入れにくいので伝言を伝えておいて下さいとお願いされたんです。車を買いました。ありがとうございます、仕事が終わった後連絡下さいとのことでした。副社長に伝えておいていただけますか?」朱莉は頭の中で何度もシミュレーションした台詞を口にした。「……分かりました。副社長に伝えておきますね」姫宮は一瞬訝し気な目で朱莉を見たが、一礼して去って行った。その後ろ姿が見えなくなるまで朱莉は見送った。心臓はまるで早鐘のように打っていたが、何とか姫宮と接触を果たすことが出来たのだ。「怪しまれないうちに早く帰らないと……朱莉は足早にビルを後にした――**** ウィークリーマンションに辿り着いても、まだ朱莉の心臓はドキドキしていた。「私ってこんなに大胆なことが出来る人間だったんだ……」震える両手を見ながら朱莉は呟くと、突如メッセージの着信を知らせるメロディーが鳴った。「え?」朱莉はメッセージの相手を見て驚いた。それは姫宮からだったのだ。(ま、まさか……姫宮さんは私の顔を知っていて、さっき会社を訪ねたのが私だってばれてしまったの……?)朱莉は震えながらスマホを握りしめ、緊張しながらメッセージを開いた。『奥様。姫宮でございます。ご無沙汰しております。先程花屋の女性から花束を受け取り、副社長室に飾らせて頂きました。奥様によろしくとお話ししておりました。夜に電話を入れることを伝えるように言われたのでご連絡させていただきました。それでは失礼致します』朱莉は姫宮のメッセージを読むと安堵のため息をついた。「良かった……姫宮さんには私のことがばれなかったみたいで……でも…」朱莉はそこで悲しそうな顔をした。「多分翔先輩は明日香さんの話は姫宮さんに話しても……きっと私のことは姫宮さんには話していないんだろうな……私の顔だって知るはずないよね」そう、所詮自分は仮初の妻。後数年もたてば、朱莉と翔の離婚が成立して2人はまた元の赤の他人に戻る……それだけの関係。(でも姫宮さんと翔先輩の関係はこの先もきっと続くんだろうな……)それを思うと、朱莉は無性に寂しい気持ちに襲われるのだった――****
7時―― 朱莉は部屋のカーテンを開けた。まだ東京は梅雨明けをしていないので、空は灰色の雲で覆われて雨がシトシトと振っている。その憂鬱な空を見上げながら朱莉は溜息をついた。結局昨夜は一度も翔から連絡が入らず、心に引っかかっていたのだ。(姫宮さんが伝言を翔先輩にわざと伝えなかったか、それとも翔先輩が忙しくて連絡を入れられなかったのか……その内のどちらか1つなんだろうけど……)出来れば後者であって欲しい……もし仮に姫宮が朱莉からの連絡を翔に伝えていなければ、もう翔からは連絡がこないかもしれない。気付けば朱莉は窓の外をボンヤリと眺めていたが、こうしていても仕方が無い。今日は億ションへ一度着替えを取りに戻ろうと思っていたので、朱莉は出掛ける準備を始めた。どうせあと数日でこのウィークリーマンションを出なくてはならない。今回朱莉が東京へ出てきたのは翔の浮気調査が目的で、あまり気分の良いものではなかった。何をするにも憂鬱な気分で、朱莉は料理をする気力も持てなかった。朝食を買いにコンビニへ行こうと、玄関で靴を履いて傘を持った時に、スマホに着信が入った。(まさか、翔先輩!?)期待しながら確認すると、それは明日香からであった。(明日香さん……)昨夜は翔からの連絡は来なかった。その事を告げるときっと明日香は落胆するだろう。明日香のことを思うと気が重かった。一体どんなメッセージを送って来たのだろうか……。『おはよう、朱莉さん。今朝のニュースで東京の天気を見たけれども、梅雨の寒い日が続いているそうね。風邪引かないように温かい恰好をしていた方がいいわよ。最近お腹の調子が良くなってきたの。退院できる日が楽しみだわ。そしたら何か貴女にお礼させてちょうだい』「明日香さん……」明日香のメッセージを読んで、朱莉は目頭が熱くなった。本当は翔のことを尋ねたいはずなのに、朱莉のことを気遣って、報告をじっと待っていようとする明日香の気持ちが伝わってくる。朱莉は明日香にメッセージを書いた。『おはようございます。明日香さん。こちらは確かに寒いですが、コートを持って来ているので私は大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます。数日以内には沖縄へ戻ります。その時には明日香さんにとって良い報告を持って帰る事が出来ればいいなと思っています』内容を確認すると、メッセージを送信した。朱莉は
翔が琢磨をクビにしたという話は翔から電話で聞いた。明日香は驚いて理由を尋ねたが、翔の話では互いの方針が合わなかったからクビにしただけだとしか答えず、明確な理由を教えてもらうことは出来なかった。おまけに琢磨はスマホも解約してしまったのか、全く繋がらなくなったし、会社で使っていた専用のメールアドレスも当然エラーで戻ってきてしまう。個人用のフリーメールアドレスも同様だった。てっきり朱莉にだけは新しい連絡先を教えているだろうと思っていたけれども、朱莉も教えて貰っていないことを知った時は流石に驚いた。「翔……どうして琢磨をクビにしたのよ。朱莉さんから琢磨を遠ざける為に? ひょっとして、翔は……」しかし、明日香はそこで言葉を飲み込んで時計を見つめた。時刻は9時になろうとしている。今日はこれから超音波検査と採血がある。明日香はお腹にそっと手を当てた。未だにお腹の子供に特に何かを思うことは無いが、実際に子供を産めば自分の心の中が何か変わるのだろうか?だが、明日香には自信が無かった。何故なら明日香自身、母親から抱き締められたり、愛情を注がれた記憶が全く無かったからだ。母の愛情が欲しくて欲しくて堪らなかった。しかし母はいつも明日香に背を向け、とうとう明日香を、鳴海家を捨てて愛する男性の元へ行ってしまったのだ。最後まで明日香を顧みる事無く……。 明日香は子供に愛情を注ぐ方法が分からない。だからこそ自分の代わりに数年だけ子供を育ててくれる女性が欲しかった。他人が子供を育てる様を見てどうやって子供に愛情を注げばいいのか学びたかったのかもしれない。きっと心優しい朱莉なら愛情を持って子供を育ててくれるだろう。そしてその後は……?「翔……」明日香は天井を見つめ、ポツリと呟くのだった—―**** 朱莉は昨日と同様にウィッグにカラー眼鏡という格好で六本木にある億ションを目指して歩いていた。雨が降っていたのは幸いだった。何故なら傘で顔を隠して歩くことが出来るからだ。いつもとは違う派手めなメイクに、付けたことも無いイヤリングを今はしている。朱莉だとバレることは無いだろうが、用心に越したことはない。 エントランスに到着する前に、あらかじめ持参してきたつばの広い帽子をかぶり、中へと入る。すると、その時偶然エントランスの自動ドアが開き、中から1組の男女が現れた。朱莉は顔を見ら
朱莉は億ションの自分の部屋で呆然とソファに座り込んでいた。本当は荷物を取りに来たのに、それすら手につかなかった。(あの声は間違いなく翔先輩だった……。それにあの後ろ姿は見覚えがある……)考えてみれば朱莉はいつも翔の背中ばかりを見つめていた。だからこそ確信があったのだ。あの背中は翔で間違いないと。それに女性の後姿も昨日見かけた姫宮で間違いは無いだろう。昨日の出来事だから脳裏にはっきりと焼き付いている。「翔先輩……本当に姫宮さんと……一晩一緒だったんだですか……?」朱莉はポツリと呟き、目に涙が浮かんできた。嫌だ、信じたくない。翔が明日香以外の女性と……。そんなはずは絶対無い。朱莉はそう信じたかった。でも、何故だろう? 元々翔が朱莉を振り向いてくれることはあり得ない話なのに。それは明日香のことで十分すぎる位分かっている。仮に翔の相手が明日香から姫宮に移ったとしても、どのみち朱莉には翔と結ばれる未来が来ることは無いのだ。それなのに何故、今こんなにショックを受けているのだろう?「私……相手が明日香さんだったから諦めがついていたんだ……」その時、朱莉は初めて自分の気持ちに気が付いた。明日香と翔は昔から強い絆で結ばれている。そこに自分が割り込めるのは不可能だと分かり切っていた。そこへ突然現れた女性が明日香の前に立ち塞がったから、これ程までにショックを受けてしまったのだ。(私でさえこんなにショックを受けているんだから、明日香さんが目にしていたらどれ程の衝撃を受けていただろう……)そう考えると、あの2人が億ションから出て来る現場を見つけたのが朱莉で良かったのかもしれない。だけど……。「こんなこと、明日香さんに報告なんて出来ないよ……。だってもし本当に翔先輩が浮気していて、あの女性に本気になってしまっていたら? 明日香さんは順調にいけばあと数か月で赤ちゃんが生まれるのに……」(嘘ですよね……? 翔先輩。どうか明日香さんを捨てないで下さい……)朱莉は膝を抱えるように座り、その上に頭を乗せてすすり鳴いた――**** あれからどの位時間が経過しただろうか……。突然朱莉のスマホが鳴った。そこでようやく我に返った朱莉はスマホを手に取り驚いた。何と相手は翔からだったのである。(え!? う、嘘!? な、何故突然?)慌てながらも朱莉は電話に出た。「は、は
「く、九条さん……」あの九条琢磨が爽やかな笑顔で、朱莉の部屋の大画面テレビに映し出されている。画面の中の琢磨はインタビューに答えているのだろうか。ある言葉が朱莉の耳に飛び込んできた。『我々の会社【ラージウェアハウス】は発足してまだ2年足らずの会社ではありますが、これからどんどん業績を上げていく事になるでしょう。それこそあの日本最大手の鳴海グループにも負けない程のブランド企業に……』朱莉の握りしめたスマホからは翔の声が響いていた。『もしもし! 朱莉さん! 君は琢磨があの会社に入った事を聞かされていたのか!? 朱莉さん!』しかし、朱莉の耳には翔の言葉が耳には入ってこなかった。あまりのショックで頭の中が真っ白になっていたのだった――*** ちょうどその頃、明日香はPCの画面を食い入る様に眺めていた。見ていたのは琢磨が【ラージウェアハウス】の新社長に任命されたニュースであった。「そ、そんな……琢磨。私達を裏切ったの……? いえ、違うわね……翔のせいなんでしょう……?」(翔……貴方一体何てことしてくれたの? 2人は親友同士なんじゃ無かったの?)明日香は目を閉じるとベッドに横たわり、呟いた。「朱莉さんはこのことを知っているのかしら……?」**** 広々とした億ションのある一室。そこは京極の個人オフィスを兼ねた書斎である。この書斎には7台のPCが置かれ、京極はこれら全てを使いこなして仕事を執り行っていた。今、京極はコーヒーを飲みながら巨大スクリーンに映し出されている琢磨を見ていた。その顔には笑みが浮かんでいる。「へぇ〜。これは驚きだ。九条琢磨……やっばり君は面白い男だな……」そして京極は何処へともなく電話を掛けた――**** ここは鳴海グループの会長室。今、猛はPC電話で九条と話しをしていた。「九条、君が翔にクビを言い渡された時には正直驚いたよ。まさかあいつがそんなことをするとはね」『そうですか。でも最近私と翔の間では色々対立がありましたからね』「私は君を推していたんだよ。翔の手足となって君がどれ程力になってくれているのかは十分知っていたからね。だからこそ君を私の秘書にと考えていたのだが……」『まさか。副社長にクビにされた人間が会長の秘書をするわけにはいかないでしょう?』「……何故、もっと早く私に話してくれなかった?」重々しい口調
「九条さん……」朱莉はテレビに映し出された琢磨の顔を思い出していた。まさか沖縄で別れて以来音信不通になっていた琢磨にテレビの中で会うとは思ってもいなかった。琢磨が新社長に就任したインターネト通販会社『ラージウェアハウス』は誰もが知っている有名な大手通販サイトで、朱莉自身も良く利用している。『それこそあの日本最大手の鳴海グループにも負けない程のブランド企業に……』あの琢磨の鳴海グループに対する何処か挑戦的な物言いが朱莉は気になって仕方がなかった。まるで喧嘩を売っているようにもみえた。(九条さん……ひょっとすると、翔先輩にクビにされたことを恨んで……?」でも朱莉はすぐにその考えを否定した。(そんな馬鹿な。九条さんは立派な男性だし、おまけにすごく優秀な人物。あの台詞を言ったのは、クビにされたことが原因なはずない……)ニュースが終わった後、朱莉は翔と電話で話をしたが、正直なところ何を話たのか、ほとんど覚えていなかった。ただ1つ覚えているのは、翔に琢磨から仮に連絡が入ったら、すぐに自分に連絡先を知らせるようにとのことだった。もし琢磨が拒絶すれば、今後一切、自分達に関わってこないでくれとはっきり伝えるように翔から言われた。金で雇われた契約妻の朱莉は、翔の言葉に従う他無かった。ふと、朱莉は思った。「翔先輩……どうして私の所に九条さんから連絡が入ると思っているんだろう? 仮に連絡が届くとすれば絶対翔先輩宛てに連絡がくると思うんだけど……」その時、突如として電話がかかって来た。相手は明日香からだった。「明日香さん!」ひょっとして明日香もニュースを見たのだろうか?「はい、もしもし」『朱莉さん! ねえ、琢磨のこと知ってる!?』明日香はすぐに琢磨の話を持ち出してきた。「はい、先程テレビのニュースで見ました。……正直驚きました……」『私はネットのニュースで知ったのよ。私もすごく驚いている。今も信じられないわ。あの琢磨が………あんなことをテレビで言うなんて……。どんな時でも私達の味方だったあの琢磨が……』電話越しの明日香の声はどこか震えているように聞こえた。「明日香さん……」朱莉は明日香に何と声をかけてあげれば良いか分からなかった。『ごめんなさい、朱莉さん。でも貴女の方がショックよね。それに琢磨があんな風になったのはきっと私と翔のせいに決まって
「明日香さん……」明日香の涙ぐむ声を聞けば、翔が姫宮と億ションから出てきた話等伝えることはできない。代わりに朱莉は言った。「明日香さん。あまり思い悩むとお腹の赤ちゃんに良く無い影響が出るかもしれないので今は自分の身体のことだけを考えて下さい。翔さんの件は私が東京で出来るだけのことをしてきますから。でもあまり長くはいられませんけど。いつ、翔さんが明日香さんに会いに沖縄へ来るか分かりませんから」『そ、そうよね。あまり長く沖縄を不在にしておくわけには確かにいかないわね。それじゃ、朱莉さん。悪いけどよろしく頼むわ。もし沖縄に戻る日程かが決まったら連絡貰える? また私の方で飛行機の手配をするから』飛行機で朱莉は思い出した。「あ、あの明日香さん!」『何?』「東京行の飛行機の件、有難うございました。まさかビジネスクラスのシートを取っていただいていたなんて。とても嬉しかったです」『な、何よ……。その位のこと。だって私の個人的なお願いで東京へ行って貰うんだからそれ位は当然よ……』明日香の最後の方の言葉はかき消えそうなほど弱かった。そう、その話し方はまるで……。(え? 明日香さん……ひょっとして照れてるの……?)「明日香さん。あの……」すると明日香が言った。『と、とにかく帰りの日程が分かったらすぐに連絡してね。それじゃあね』そして電話は切れてしまった。「明日香さん……ありがとうございます」朱莉はスマホを両手で握り締めて、改めて感謝の気持ちを口にした――**** その後、朱莉が気を取り直して衣類をバックに詰めている最中に安西から電話がかかってきた。「はい、もしもし」『朱莉さんですか? いくつか調べて新しく掴んだ情報が入りましたので、これから事務所に来ることは出来ますか?』電話越しから安西の声が聞こえてきた。「はい、大丈夫です。今から1時間以内にはそちらへ伺いますね」『お待ちしていますね』「はい、よろしくお願いいたします。では、後程」電話を切ると、朱莉は時計を見た。時刻は15時になろうとしている。「ええっ!? もうそんな時間だったの? まだお昼頃かと思っていたのに……」確かに考えてみれば、琢磨のニュースを見た後の明日香からの電話。そして沖縄へ戻る為の準備。すっかり時間を忘れていた。「お昼もまだ食べていなかったし……早目に出て、カフェ
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると
明日香が10年分の記憶を失い、高校生だと思い込んでいる話は朱莉にとってあまりにもショッキングな話であった。「朱莉さん、大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」「は、はい。大丈夫です。でもそうなると今一番大変なのは翔先輩ではありませんか?」朱莉は翔のことが心配でならなかった。あれ程明日香を溺愛しているのだ。17歳の時、翔と明日香は交際していたのだろうか? ただ、少なくとも朱莉が入学した当時の2人は交際しているように見えた。「朱莉さん、翔が心配かい?」琢磨が少し悲し気な表情で尋ねてきた。「はい、とても心配です。勿論一番心配なのは明日香さんですけど」「やっぱり朱莉さんは優しい人なんだね」(あの2人に今迄散々蔑ろにされてきたのに……それらを全て許して今は2人をこんなに気に掛けて……)「何故翔さんは九条さんに連絡を入れてきたのですか? それに、どうして九条さんから私に説明することになったのでしょう?」朱莉は琢磨の瞳をじっと見つめた。「俺も、2日前に翔から突然メッセージが届いたんだよ。あの時は驚いた。翔と決別した時に、アイツはこう言ったんだよ。互いに二度と連絡を取り合うのをやめにしようと。こちらとしてはそんなつもりは最初から無かったけど、翔がそこまで言うのならと思って自分から二度と連絡するつもりは無かったんだ。それなのに突然……」そして、琢磨は近くを通りかかった店員に追加でマティーニを注文すると朱莉に尋ねた。「朱莉さんはどうする?」「それでは私はアルコール度数が低めのお酒で」「それなら、『ミモザ』なんてどうかな? シャンパンをオレンジジュースで割った飲み物だよ。アルコール度数も8度前後で、他のカクテルに比べると度数が低い」琢磨はメニュー表を見ながら朱莉に言った。「はい、ではそちらを頂きます」「かしこまりました」店員は頭を下げると、その場を立ち去っていく。すると琢磨が再び口を開いた。「明日香ちゃんは自分を高校生だと思い込んでいるから、当然翔の隣にはいつも俺がいるものだと思い込んでいるらしいんだ。考えてみればあの頃の俺達はずっと3人で一緒に高校生活を過ごしてきたようなものだからね。それで明日香ちゃんが目を覚ました時、翔に俺のことを聞いてきたらしい。『琢磨は何処にいるの?』って。それで一計を案じた翔が明日香ちゃんを安心させる為に、もう一度3人で会いた
「九条さんが【ラージウェアハウス】の新社長に就任した話はニュースで知ったんです。あの時九条さん言ってましたよね? 鳴海グループにも負けない程のブランド企業にするって」「ああ、あの話か……。あれは……まあもう1人の社長にああいうふうに言えって半ば命令されたからさ。自分の意思で言った訳じゃ無いが正直、気分は良かったな」琢磨は笑みを浮かべる。「あの翔に一泡吹かせることが出来たみたいだし。初めはテレビインタビューなんて御免だと思ったけどね。大分、翔の奴は慌てたらしい」朱莉もカクテルを飲むと琢磨を見た。「え? その話は誰から聞いたんですか?」「会長だよ」琢磨の意外な答えに朱莉は驚いた。「九条さんは会長と個人的に連絡を取り合っていたのですか?」「ああ、そうだよ。実は以前から会長に秘書にならないかと誘われていたんだ。でも俺は翔の秘書だったから断っていたんだけどね」「そうだったんですか」あまりにも驚く話ばかりで朱莉の頭はついていくのがやっとだった。「それにしても朱莉さんも随分雰囲気が変わったよね? 前よりは積極的になったようだし、お酒も飲めるようになってきた。……ひょっとして沖縄で何かあったのかい?」琢磨の質問に朱莉は一瞬迷ったが、決めた。(九条さんだって話をしてくれたのだから、私も航君のこと、話さなくちゃ)「実は……」朱莉は沖縄での航との出会い、そして別れまでを話した。もっとも名前を明かす事はしなかったが。一方の琢磨は朱莉の話を呆然と聞いていた。(まさか朱莉さんが男と同居していたなんて。しかもあんなに頬を染めて嬉しそうに話してくるってことは……その男、朱莉さんに取って特別な存在だったのか?)朱莉が沖縄で男性と同居をしていた……その事実はあまりに衝撃的で、琢磨の心を大きく揺さぶった。「それでその彼とは東京へ戻ってからは音信不通……ってことなのかい?」内心の動揺を隠しながら琢磨は尋ねた。「はい。そうです。だから条さんとは連絡が取れて嬉しかったです。ありがとうございました」お酒でうっすら赤く染まった頬ではにかみながら琢磨にお礼を言う朱莉の姿は琢磨の心を大きく揺さぶった。「そ、そんな笑顔で喜んでくれるなんて思いもしなかったよ。でも……そうか。朱莉さんが以前よりお酒を飲めるようになったのはその彼のお陰なんだね?」「そうですね……。きっとそう